一連のバージ船リノベーションプロジェクトを振り返る7

バージ船が陸地に係留されているさま

水辺に船を係留するというのは、想像するより簡単なことではない。係留するためには係留杭、係留用のビットが必要で、さらに円滑に乗り降りするためには浮き桟橋で潮の満ち引きと連動することが望ましい。
バージ船をもつまではそんなことすら僕は知らなかった。船が護岸に接岸するためにロープ(もやい)がどんなに重要な役割を果たしているのか、建築の世界からはわからない。
たとえば隅田川を見渡してみても、コンクリート製の護岸が整備されてはいるが、係留する施設はほとんどない。都市計画家なら、「親水空間」と呼べるのかもしれないが、BPA的には借景的親水空間でしかない。

われわれがLOB号を係留させようとしている都市はそんな現状だ。

阪神淡路大震災において水運が重要な役割を果たしたとシンポジウムで聞いた。しかし、一方で都市の水辺に係留する場所がなければ、その果たすべき役割は果たされないのではないか?そんな疑念が湧いてきた。

LOB号がもし、そういう震災に遭遇してたまたま被災しなかったとして、どのような役割を果たすのか?そんなことに興味が湧いてきたのが2006年夏のことである。

メンバーミーティングにて、今後防災のためのLOBの研究を行うことを提案した。もちろん異論もあった。われわれ自身が被災経験や災害救援の経験がないことが一番気にかかることであった。しかし、気が付いてしまった以上、やらないわけにいかないし、自分たちの生き抜く術、サバイバルに興味が湧いてしまった。

私たちは、都市で漫然と生きている。水は蛇口をひねればやってくるが、自然界において、こんな場所は珍しい。しかし、災害後の都市は砂漠のように水場のない場所だ。都市インフラから隔絶された水辺もまたそんな場所だ。

アンプラグド。

生き抜くすべをしらない都市民であるわれわれBPAメンバーが水上でどうサバイバルするのか。そのために必要なことはなんなのか?船はだいたい自立的なエネルギー源をもっている。航海するために必要なエネルギーと水を積んでいる。インフラと必ずしもつながっている必要はない。

一方、LOB号はトリエンナーレの時、陸上の電力コンセントにつながれていたが、これでは、災害の時役に立たない。

LOB号はトリエンナーレでは農業用ビニールハウスに覆われていたが、夏場は室内温度が40度以上になってしまうので、5分となかにいることはできない。また、都市河川の多くの橋をくぐることもできないので、アクセスできる水面が限られてしまう。

LOB号も改造しなくてはなるまい。そのためのプロジェクトを立ち上げることにした。

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一連のバージ船リノベーションプロジェクトを振り返る6

新木場という新しい母港ができた2006年の春、BPAは今後の活動についてじっくり話し合う機会ができた。いまから考えるとずいぶんのんきな話だが、毎月毎月係留料を支払っているにもかかわらず、先はまったく決まっていなかった。ただ、トリエンナーレというチャンスをいただいた僕らは、そこで蓄積したものをそのまま放棄してしまう訳にはいかないと思っていた。

トリエンナーレからさかのぼる事半年、2005年3月にBPAはBankart1929にて、「Floating CAFE!! バージ船とテクノスケープから考える水上空間」というテーマでシンポジウムとパーティを実施。BOAT PEOPLEの考える「水上経験」という視点から、運河に面したBankART NYKの活動を水面に広げて行くための提案を行った。そのとき、「バージビレッジ構想」という提案を行った。異なる機能をもった船がたくさん集合することによって水上の村を形成し、それぞれがお互いを補完し合って魅力を高めるという提案である。トリエンナーレの提案もその延長上にあったといっても過言ではない。

バージビレッジ構想 さまざまな機能をもった船が集まる。畑船、露天風呂船、バスケットコート船など

トリエンナーレ終了後、われわれのLOB号がバージビレッジの一角を担うとして、どのような機能をもたせると、世の中に求められている機能を満たすことができるか話し合ったのである。

事務所船


まず、自分たちの投資に対していちばんリスクを分散できる形が事務所にすることだと思った。しかし、問題がひとつ。係留場所が公共水面の場合(多くの河川運河がそうである)、かなりの確率でそもそも係留が許されない。ダマでやったら本業の方が打撃を受ける。本業が一級建築士の私にとっては、日々きびしくなっていくリーガルリスクはさけなければならなかった。

公園船


公のためになる機能を盛り込む場合、公園という回答はあり得る。しかし、役所が財政的に苦しい昨今の状況を考えると、新たに管理コストのかかるヘンテコな船を持つという選択はないに等しい。

ファッションショー


ブランドの発信力を高めるために、あえて少人数で限られた人々に対して水上のファッションショーを開催する。おそらくメディア露出度は高くなるはずだ。テンポラリーであるという時点で実現度は高いが、読めないコストと読めないリスク管理がネックか。

美術館船


グッゲンハイム財団のように世界中に美術館を建設させなくても、世界中に影響力のある美術館をつくることができるという提案。

いずれのスケッチも、実現性に乏しく現実に即していない、という事実をようやく理解し始めていた。公共性とはそんなに生半可なものではない。

時はすぎ、議論は煮詰まり、2006年夏頃まで塩漬けにされた。

そしてこのスケッチをネタに行われた逗子でのミーティングにおいて、新たな方向性をもたらされた。

バージ船が陸地に係留されているさま

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一連のバージ船リノベーションプロジェクトを振り返る5

2005年12月21日、3ヶ月にわたって開催された横浜トリエンナーレは終了した。

国際貨物が国内に入る前に検査されるために保管される保税倉庫という、どこに属しているのかわからない場所で開催されたアートイベントは、強烈な印象を残してサーカスのようにどこかに消えていった。

われわれもLOB号を山下埠頭の反対側に曳航し、2006年をそこで迎える事にした。

メンバー(当時)とLOB号

解体するための見積もりは50万程度だったように記憶している。平行して船を係留できる場所を探してもらっていた。いくつか候補があがったが、どこも受け入れてくれなかった。

陸地からアクセスしやすい場所、イベントなどがやりやすい場所など、探してみると意外なほどない。あったとしても、橋をくぐれなかったり、了解してもらえる見込みがなかったり。

当時、運河ルネッサンス協議会という制度が東京でスタートしていた。

運河の利用方法について、民間の意見をとりまとめるための任意の組織で、芝浦、天王洲、朝潮などで活動を行っている。海外のまちづくりの事例における、コミュニティボードのような存在の組織で、ここでの議決を行政は判断基準として活かすものとしている。あたらしい取組みがおこりやすいように、市民の意見を集約するための組織であるともいえよう。

こういった取組みもあることで、どこかのまちに拾ってもらえると期待していたのかもしれない。しかし時間切れはすぐやってきた。新山下の係留場所は2月中には撤収しなければならなかった。

結局次善の策ではあるが、新木場の沖合に泊めさせてもらえる場所をいただいた。港湾工事業者さんのご好意である。

新木場の沖合の係留場所 たまたまLOB号が映っている

しかし、問題があった。沖合だと風強く、現状の農業用ビニールハウスだと係留できないと意見をいただいた。そこで、そのビニールハウスを撤去し、単管足場で仮設の屋根をもうけることとした。その工事に30万かかるが、我々全員で負担する事にした。さらに、係留するために月額4万かかるが、それも我々全員でワリカンで負担する事にした。

そこまですることにしたのは、いま係留する場所がなくても、運河ルネッサンスの盛り上がりや港湾オープン化の流れでいずれ係留できるようになり、LOB号が活躍する場がそのうちできるだろうという打算があったからだ。

屋根をかけかえたLOB号が横浜新山下を出航し新木場に向かうところ。


トリエンナーレスタッフが見送ってくれた


新山下沖合のLOB



羽田空港沖を航行するLOB


係留場所に到着したLOB号

一方、この航海で、あらたな魅力も発見する事となった。それは港湾の素の状態そのものの魅力である。あらゆるものが初めて見る光景で、新鮮だった。われわれは船から必死に見るものをカメラに収めて行った。




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一連のバージ船リノベーションプロジェクトを振り返る4

シンポジウムに先立って、東京から平生さんがご自身の船グランドバンクスに乗ってやってきた。画期的なことだ。船で自由に行き来できる海。バージ船に横付けされ係留されたクルーザー。当たり前の事に思えるかもしれない。

しかし、その非日常さに気がついていたの人はあの会場にどのくらいいたであろうか?水辺の問題はそれくらい根深いとも言える。

横浜トリエンナーレ2005がおこなわれた山下埠頭は、国際貨物物流の重要拠点で、ふだんは一般のひとが自由に入れる場所ではない。陸地ももちろん、水面も本来であれば港長権限で立ち入りが厳しく制限されている場所だ。
そこにクルーザーがやってきて、ひょいっと会場に入ったことのすごさを実感した我々は、シンポジウムがすごいことになると期待した。芹沢さんがわれわれに期待した事の一端がわかったような気がした。

パネリスト:
田久保雅巳(マリンジャーナリスト会議議長、KAZI編集長、(株)舵社常務取締役)  
難波喬司(国土交通省関東地方整備局空港港湾部長) 
平生進一(三菱地所(株)住宅開発事業部商品企画部長) 
芹沢高志(P3 art and environment、横浜トリエンナーレキュレーター) 
村野義哉(海小屋MANAオーナー)
二瓶文隆(東京都中央区区議会議員)
井出玄一他 BPAメンバー
すべて当時の肩書き

水辺の現状について

シンポジウムで話題になったのは、いかに水辺が放置されているかという事だった。われわれの問題意識は、フェンスで囲われてしまった水辺、水上からアクセスできない護岸だった。当然水で遊ぶプレジャーボートの目線の平生さんや田久保さんからは、東京にボートの目的地がないことを憂う意見が出された。

震災時の代替輸送手段として

阪神淡路大震災の水上交通の教訓の話が難波さんや二瓶さんから出された。震災時、陸上輸送が倒壊したビルなどによって寸断され、水上輸送が見直されたという視点である。大震災において17の臨時航路が開設され、多くの人の輸送に役に立ったという。

神戸市役所 震災記録写真より転載

衰退しつつある水上輸送が代替輸送手段として有効だったというのは意外な視点だった。
その後の活動に多くの示唆を与えてくれたとふりかえると思えてくる。

あたらしい海の家のかたち

われわれが海小屋MANAのオーナー村野さんを呼んだのには訳があった。葉山の一色海岸にある夏の海の家は、単に海水浴客のための遊戯施設としてではなく、夏だけその場所に現れるコミュニティそのものを体現した象徴的な場所である。

umigoya MANAにてミーティングするBPAメンバー2007.07.16

ここの場所を「夏だけ現れる自分のリビングルーム」と評したのは常連で後にメンバーとなる墨屋だった。多くの常連客が自分の生活の一部としてこの海の家を利用し、地域の価値を支えているという現状があるという。

公共空間で海が眺められて、ゆったりくつろぐことができ、多くの人に愛されているこの場所はわれわれの実験の先行事例としてはぴったりだろう。思った通り、村野さんがそのことをきちんと会場に説明してくれたことは、われわれとしてはよかった。多くの人が海の家にそんな意味があったのかと思ったはずである。

その場でやはり感じたのは、閉塞感がただよう水辺の状況をどうにもできない個々人の不満や、われわれのような観測気球的なイベントに対する期待であった。今後につなげて連携する事を誓って閉会した。

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一連のバージ船リノベーションプロジェクトを振り返る3

横浜トリエンナーレ2005終了まで1.5ヶ月を切ったなか、われわれはまだ結論を出せずにいた。

われわれは、この船の処遇について悩んでいた。

進むべき道は二つ

・LOBを保有し続け、どこかで係留できる場所を探す。
・きっぱりとあきらめ、LOBを廃棄処分とし、別の活動形態を模索する。

さまざまなコネをつかって、LOBをどこかに係留する可能性を探っていた。実は国土交通省の部長さんとお話ししたとき、そのとき「港はオープンにするということが政策的に決まっている」と聞いていた。横浜のアートの団体や、東京の行政区の議員など相談できる相手もたくさんいた。観光を課から部に格上げした東京都産業労働局では、たてわりが続いていた河川局と港湾局を統合して新しい水辺の秩序をつくると勢いづいていた。
そのときは、この船を係留して永続的に半公共的なスペースとしてやっていくことの可能性は高いように感じていたのだ。

ライブペインティングの様子

当時、オルタナティブスペースという考え方に傾倒していた。

オルタナティブスペースとは、1970年代にアメリカの小ホールがはじまりの、狭義の美術を目的としないスペースのことらしいが、2000年代に商業主義でも、私的でもない文化的ななにかを目指したスペースをそのように呼び、その可能性を多くの人々が探っていた。我らが坂倉杏介もBPAとは別の活動において、現在「芝の家」を運営し、またかつては「三田の家」をたちあげ、当時はその可能性を探る立場でもあった。筆者イワモトもCET(セントラルイースト東京)のディレクターの一人であり、街の中にアートが散らばって行くなかで、自分の家が起点となって新住民と古参住民が交流するさまを体験していた。

われわれの活動は、普通の企業のように水辺の上でなにか営利目的の事業をやることが目的ではない。それでは、ただ単に新規参入をめざし、既存の仕組みと対立するエンタープライズとなってしまう。一方で、私有を高らかに宣言して、公共性の高い水上空間を占拠することには反対している立場でもあった。よって、われわれがもし、船を係留できた場合、それは「オルタナティブスペース」となり、たくさんの人々が運営に携わり、ともに利用する空間になるのではないかと考えたのであった。

水上は公共空間である。

あたりまえのことである。なかには私有を前提とした水上空間もなくはない。しかしながら、日本において、水上には占有権はなく、使用権もほとんど法が定められる前からの既得権者のために細々と暗黙のうちにみとめられてきたにすぎない。つまり、公共の用に供するための空間ではあるが、公共でないものがそこに業をなすために居続ける権利は実は定まっていない。

とどのつまり、港長とよばれる強大な権力者=行政機構(≒公共)の裁量にゆだねられ(港湾エリアに限るが)つまり、既得権者と行政機構以外が自由に利用する余地はあまりない。実際、業として造船をやられているような会社も、港長権限をふかざす港湾行政には困っているそうだ。そのような話を舟運業者から聞いたのは一度ではない。

しかし、当時はそこまでの厳しい認識はなかった。私たちは新しい「公共性」を定義しなければならなかったが、定義できるという不思議な自信もあった。その自信には人々がオルタナティブスペースを求めているという認識があった。それゆえ、自分たちが船を持ったとしても、公共性を帯びた水面に係船できる可能性は高いと感じていた。

その「公共性」を定義するために、必要だったのが船上シンポジウムである。

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一連のバージ船リノベーションプロジェクトを振り返る2

photo by satoshi asakawa

横浜トリエンナーレ2005は夢のような時間だった。

毎週の定例が水の上で行われたのだから。

確かに最初は浮かれすぎていたのかもしれない。外からながめて、中に入って、来場者の顔をながめ、なんだか落ち着かなかった。しかし時間が経つにつれ、メンバーは夜な夜な仕事場からの帰り道により、船の上でこの船が何を意味するのか話し合ったものだ。

実質的にわれわれをトリエンナーレにむかえてくださったP3芹沢高志さんとのコミュニケーションもとても有意義だった。芹沢さんはわれわれのようなミニミニデベロッパーのような小さな集団がこれからの都市を変えて行くんだと話してくださった。とても勇気をいただいた。ジョージ・ダイソンのバイダルカの話や、スアダ・カピッチのサラエボのサバイバルの話を船の上で聞けた事ことはぼくにとってとても有意義な事だった。できあがった制度に頼らず、でもたくましく使いこなし生きて行く都市サバイバーや都市ミニデベロッパーの将来像を、都市といったん隔絶した水の上で話をしたのだから。まるで自分たちもそんなヒーローたちになれたかのような錯覚におちいった。そう、自分たちが水辺、東京、横浜の水辺のありようを変えなければならない、そう思った。



船のなかでは活発に議論がかわされていたように思う。陸側からは「あれはなんなんだ?」と思われていたようだ。陸地の上のトリエンナーレとは別の時間が流れていたのかもしれない。想像を超える事ができない境界線もあったのかもしれない。しかし、そのコミュニケーションの中でわれわれはその後の活動にかけがえのない関係をさまざまなひとたちと結ぶことができた。

この船は、係船後も微細な更新が行われて行った。

なにより、坂倉がビデオを編集してきてくれて、船内にモニターがセットされると、それまでのふわふわとして認知が人任せな空間が突然ドキュメンタリーの一部になり、メッセージ性が強いものとなった。

フェンダーとしてくくりつけられていたタイヤはほんとうによく脱落したものだ。

忘れた頃にやってくる台風にも脅かされつづけた。気象情報はいままでにないぐらい確認を繰り返した。何度となく、ビニールハウスのビニールをやぶって、台風に備える事を考えた。幸い、そのような事態になることはなかったが。

陸にありつづける建築の永続性(に感じる人間の認識不可能性)と船の自然環境の中でのはかなさとの対比は想像以上で、数週間前に竣工した船はどんどん老朽化していった。横浜の港内の波も想像以上で、多くの来場者が船酔いで退場を余儀なくされていた事もまた事実である。

会期はもうすぐ終わってしまう。
この船はどうするべきなのか、われわれはどういう活動をこれから行って行くのか?そんな議論が活発に行われた。まずそのために必要なのは、この船を係留させる場所であった。しかし、これが難問だった。

二部終

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